4泊5日が13泊14日に、台風6号

 前回、更新したのは7月23日。それから3週間も過ぎてしまった。
 これには訳がある。同居する次女の提案で、7月30日から4泊5日で私の両親の故郷「沖永良部島」(鹿児島県大島郡)に(子ども長女・次女・息子夫婦・孫(長女の子中3,次女の子中3、小4、6歳)総勢10人で行くことになった。直前に息子夫婦がコロナ感染のため参加できなくなった。
 台風6号が沖縄・奄美に接近していたが、台風の当初の進路は沖縄・奄美を通って中国に行くコースだったので予定通り沖永良部島に行くことにした。わたしたちのコースは高松空港から那覇空港を経由して沖永良部空港までで、沖永良部行きは小さなプロペラ飛行機。
 沖永良部島に着いたらホテルの車が迎えに来ていた。宿泊は海岸前のホテルシーワールド。ホテルに着くと、すぐレンタカーに乗り、従弟の案内で孫たち希望の海水浴に行った。場所はワンジョビーチ。波も静かでサンゴでできた白い砂浜とあまり遊泳客がいない海に皆満足したようだ。また、ちょうどこの日の晩はホテルのすぐ横の浜で4年ぶりの花火大会があり、店もたくさん出ていた。そこで夕食を調達し、花火が始まるまで8人でトランプゲーム。
  翌日(31日)はレンタカーを2台借りて、私たち夫婦は従弟の車に乗り、彼の案内で島めぐり。
 沖永良部島は周囲60㎞ほどの小さな島で、和泊町と知名町に分かれている。私の両親は和泊町で生まれた。
 さらに従弟の案内で、昇竜洞(鍾乳洞、ここの景色は圧巻でした。滑りやすい洞窟を注意しながら歩いた。全長約3,500mのうち約600mを公開)、国頭小学校の日本一大きいといわれる(?)ガジュマルの木(高さ8m、幹回り6m、枝回り22mで樹齢120年ほど)、フーチャ(潮吹き洞窟、海が荒れているときにはフーチャの穴を超えて海水が吹き上げてくる)。田皆岬の絶壁は、大きな波が打ちつける景色が雄大であった。
 その後、台風の影響か激しい雨に見舞われ大山(240m、自衛隊の通信基地があり、それ以前は米軍が管理していた)、世の主の墓などを見た。
 2日目からは宿泊は「ペンションさんご」に変った。従弟たちの家からほど近い。夜は従弟たちが夕食を招待してくれた。場所は菅村芳郎宅で、ここには亡母の妹で97歳の叔母がいる。その元気さに皆びっくりした。話も合い、私たちの話もきちんと理解し、その上食欲旺盛なのには全くびっくりさせられた。今回エラブに来た最大の目的を果たすことができ、大満足の一晩であった。
 ところがである。台風6号は速度が遅くなかなくエラブ周辺を去ってくれないばかりか、Uターンまでしてきた。2日にはエラブから沖縄に行くことになっていたのに、飛行機が飛ばない。娘たちはどうエラブから出ていこうか、算段を始めた。連日、飛行場に行ってキャンセル待ちをしたが駄目だった。仕方がないのでペンションでUNOやトランプ・将棋を皆でして過ごした。4日(金)も早朝から飛行場に行ってキャンセル待ちをした。幸い、鹿児島行きの最終便のキャンセルが5席当たった。それでは3人乗れないが仕方がない。次女一家と連れ合いが乗ることになった。彼女らは鹿児島で泊まり翌日神戸空港行きに乗り、高速バスで徳島に帰った。
 残されたのは私と長女・孫の3人。何回か飛行場に足を運んだが、飛行機は来ない。トランプや将棋をしながら時間を過ごした。船も飛行機もダメなので、島には食料が乏しくなってきた。弁当や出来合のお惣菜で過ごすしかなかった。それでもたまには刺身も売っていた。台風が少し遠くにあるときは、雨の降っていない間にペンションから町の中心街まで片道25分を往復した。ペンションに閉じこもっていては健康によくないので、一日1万歩を目標とした。
 従弟の菅村芳郎は和泊「商店街」を「消店街」と言っていたがなるほどその通りの景色であった。彼の化粧品などを売っていた店も「消」の一つであった。
 沖永良部島西郷隆盛が流された島で、西郷が入れられた牢は和泊の海岸を前にした4畳半の小さな住まいで、格子がはまり小さな便器もあった。すぐ横に西郷南洲記念館が建てられていて、いろいろと説明をしてもらった。西郷の座敷牢(板敷の粗末な座敷、板囲いもない)にも入れてくれたが、いくら南の国とは言え厳しいものだったろう。牢の中の西郷の座像は、上野の西郷さんのように太ってはいない。粗食でやせていた。記念館で「西郷隆盛沖永良部島」(和泊西郷南洲顕彰会、著者は先田光演で従妹の連れ合い)を購入した。
 近くに和泊図書館があり、そこで先田さんが和泊町史の編纂をしていると聞いていたので立ち寄った。西郷は1,500冊もの本を持参し座敷牢などで読んだようだ。また島人や子どもたちにも教えていた。また西郷は農業を大事にしていたと聞いた。
 8日(火)は、なかなか島を出ることができない私たちを心配してくれたのだろう、従弟の田原義人が食事を招待してくれた。彼の家の大きな風呂にも入り、さっぱりしてごちそうになった。ここにもたくさん来て大いに盛り上がった。従弟の皆さんに感謝・感謝の日々であった。
 こんなに長逗留することになるとは思っていなかったので、少し多めに持って行った薬(高血圧・緑内障)も切れたので、病院に行くことにした。朝戸医院を受診し白百合調剤薬局で薬をもらった。ここでも台風の影響があった。連日の欠航で薬が薬局に届かない。ある患者は処方してもらっても肝心のその薬がない、後で届いたら連絡するというのだ。離島の厳しさを見せられた。孫が熱発した。慣れない環境でしかもどこにも行けないのだからだろう。
 長逗留した「ペンションさんご」には大変お世話になった。さんごのおかげで安心して台風をやり過ごすことができた。ペンションさんごの前の畑は従弟の菅村耕二所有。
 11日(金)にようやく沖縄行きの飛行機が飛ぶという。しかし、キャンセル待ちをしても乗れないだろうという判断で、船で沖縄に行くことにした。乗船時間は7時間。2時間遅れで出港した船は午後9時に那覇に着いた。宿に着いたのは9時半過ぎであった。翌日、娘たちは水戸空港へ、私は高松空港に飛び立った。
 いろいろ計画していた次女は、目的としていたエラブの各地や那覇の街を楽しむここができなくて残念だったろう。