東日本大震災、大麻山、「名瀬だより」(島尾敏雄)、阿波民報第12号

 この時期、東日本大震災後10年で、各テレビ・新聞が震災発生後10年間のことを取り上げていた。しかしそれらを見て、復興はまだまだ道遠しと言うのが私の感想だ。災害で心に受けた傷はなかなか癒せないし、自分の家に帰れない人はまだまだ多くいる。福島原発の処理のメドも立っていないのに、国・原発各社はなおも引き続き原発を稼働させようとしている。10年前のその日その時間、私と連れ合いは東京にいて(B型肝炎訴訟問題で国会に行っていた)今までに経験したことのない揺れに遭遇した。徳島に帰るのも飛行機が飛ばず一日遅れた。

 15日(月)は連れ合いの誘いで久しぶりに大麻山に登った。前日の睡眠不足のせいか、体が前に動かない。中間地点を過ぎた分岐点に着いたところで引き返した。10数年前(62歳)から大麻山に登っているが、登り始めたころは男性(グループを含め)が圧倒的に多かったが、この日は女性が2/3は占めていただろう。登山事情も変わってきた。夫婦連れは私たちだけだった。鶯の声も聞こえ小さなスミレも咲きだした。春。

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 「名瀬だより」(島尾敏雄 農山漁村文化協会 1977年10月)を読んだ。名瀬市はもうない。2006年近隣の町と合併して奄美市になった。奄美市奄美大島の中部から北部にかけて位置し、北は東シナ海、南は太平洋に面する。 笠利町地区は大島郡龍郷町をはさんだ飛地となっている。鹿児島港から西南海上383kmに位置している。

 作家の島尾敏雄は名瀬生まれの妻とここで20年ほど住んだ。「『死の棘』日記」と「死の棘」を読んだことがある。彼は戦争時代に奄美大島に将校として派遣され、ここで妻と出会った。「『死の棘』日記」と「死の棘」は彼女と暮らした奄美大島での大変な生活を描いている。「名瀬だより」は戦後1975年に再び奄美大島で暮らして、見てきた名瀬の様子を淡々とした筆致で描いている。私の叔母は奄美大島よりもっと南の沖永良部島で生まれて、東京で短期間仕事をしていたが、今では奄美大島で一人で暮らしている。90歳をいくつも過ぎているが、電話越しの叔母の声は少し甲高いが元気なものである。沖永良部島に行くには、今は飛行機ですぐに行けるが、私が小学5年生、大学2年生に行った時は船だけで(それも小さくて太平洋を航海するのは大揺れであった)、途中奄美大島・徳之島に寄港するので、船中で一泊しなければならなかった。沖永良部島について上陸するのも着岸できる大きな港がなくて、艀(はしけ)に乗って波が舟より高くなるような中を進んでいった。もう怖くて今にも船が転覆するのではないかと思った。

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 昨日、今日と阿波民報第12号の制作をした。中野市議の阿波市議会報告である。原稿がしっかりしているので、比較的編集しやすい。

 

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良寛歌集(東洋文庫556 平凡社)

931 墨染のわが衣手はぬれぬとも法(のり)の道芝ふみわけてみむ

932 墨染のわが衣手はぬれぬとも杉のかげ道ふみわけてみむ

933 忘れても人ななやめそ猿(ましら)もよ汝(なれ)もむくいはありなむものを

834 いかにして人をそだてむ法のためこぼす涙はわがおとすなくに

835 夕ぐれの岡の松の木人ならば昔のことも問はましものを