カッちん(高橋勝子)、再び。夜の女王、大輪柱咲く

 カッちんのことを書いたら、いろんな方から反応があった。そこで、彼女が1969年に雑誌「かりがね」に掲載した一文を紹介する。もう52年も前のことだから、彼女も20歳代後半だった。元気だった。薄くなったガリ版刷りの字を判読するのは大変だったが、網走刑務所に村上国治に会いに行く彼女の期待と思いが伝わってくる文章であった。 

 「無実の人、村上国治のいる網走へ」

 「村上くにじ」、「白鳥事件」を一度は聞き、知っていると思う・・・・。私が白鳥事件を知り、村上国治さんを知ったのは15才のとき。この白鳥事件松本清張の“日本の黒い霧”に書かれている通り、まったく謎につつまれている。デッチ上げ事件であるからであるし、それ以外のなにものでもない。もちろん白鳥事件と村上国治は、まったく関係ない。私がはじめて知った時は、まさか無実の人を・・・・、まさか裁判所に限って・・・・、と思っていた。しかし、事件を知り、くにじを知るごとに、やっぱり無実であるし、裁判所がおかしいのだと確信するようになった。それからである・・・・、村上国治を守る運動に参加するようになったのは・・・・。

 津軽の海を渡ること数度!今回は、獄中17年の村上国治を一刻も早く釈放させるためと、不当な裁判をやり直させるための決意の固い70数名の人たちと海を渡った。あいにくの小雨!しかし雨もまた良し、旺盛にものを思う。秋だからなのか?いや、そうじゃない。村上国治が一貫して無実を叫び、闘い続けているからである。思うことはたくさんある。そのひとつ、うちの彼はどうしているかナ?その彼と知り合ったのも、村上国治を守る運動の中、そして結婚した。私たちの仲人は国治さんなのである。だから、どうしても釈放させねばならない。ものを思い、語り合うこと4時間、やっと函館に着く。第1の目的地札幌まで数時間、列車の中ではいつ果てるともない語らい・・・・。白鳥事件の真相学習、そしてうたごえ!ときには車窓からの紅葉の美しさに見とれ、眺めいる。雄大な山々の紅葉はまったく素晴らしい。道内に入って、とても良い天気だったから、美しさは最高!ナナカマドの真紅は空の青さにマッチして、とても美しかった。「ウワーツ、キレー!」このコトバがそれを証明している。お昼、長万部で買いもとめた駅弁のかにめしに舌鼓!私も含めてみんな、幸せそのもの・・・・。だが、チラッと頭をかすめる。網走刑務所の1日の副食費が37円ということが・・・・。いくら囚人だからといっても、ひどいおかずである。お腹は満足、事件の学習に熱が入る。

 村上国治は昭和27年(1952年)10月1日、逮捕状もなしに逮捕され、3年の間、留置所をたらいまわし、留置所は畳もなければ、布団も枕もない。国治はそのブタ箱の冷たい板の間にラジオの音ひとつ聞くことなく、面会や手紙、読書も禁止されて、すわり続けさせられたのです。食事は3日に1食ぐらいの他は冷飯ばかり、副食もごくわずかしかない。例えば、親指大ぐらいのコブ巻1本にタクワン2切れが普通、ミソ汁は1日1回で、しかもダシは1度も入ったことがなく、味もほとんどない。つまり、お湯の中にオミソをとかし、ほんの少しの菜を入れたもの、1匹のままの魚は、イワシ1匹さえ食べさせない・・・・。監房は窓がなく、陽もあたらず、空気の入れかえもない。そういう状態においてケイサツや検事は、はじめの300日間、昼も夜も休みなしに

国治をせめ、転向を強要した。(村上国治は、当時日本共産党札幌地区委員長)国治はこの拷問に耐え、不屈の闘いをつづけ、真実を守り通したのです。しかし、官憲は「白鳥事件」のデッチ上げをあきらめませんでした。どのデッチ上げ事件でも使われる方法==それは、他の人からウソの供述をとり、村上国治への証拠とすることです。それをやってのけました。まさに、他人のウソの供述で3年後!村上国治は白鳥事件の首謀者にデッチ上げられたのです。矛盾だらけの裁判がやられました。「・・・・このような想定をたてることは率直にいって都合のよい素材のみを選んで組みたてた想定であるとの非難を受けねばならないかと思われるのであるが、経験則上まったく許されない想定であると判定はできないのである。・・・・」(2審判決)こうして村上国治は有罪にされた。裁判官自身が非難を受けるかもしれないというほど無理な判決をどうして信じられようか!信じられません。しかし、最高裁もまた不正な判決をかばい、昭和38年(1963年)10月17日に上告棄却の判決をしました。そして11月28日、村上国治は極寒の網走刑務所に送られたのです。怒りがこみあげ、くやしさに涙する人もいました。学習も終わり、札幌着。9月の夕方の札幌、さすがにひんやりした。

 翌日、事件の起きたところ、ウソの供述にある現場を、足で、目で調査。知るごとにいかにデタラメであるかを認識する。

 次の日、再審を棄却した札幌高裁へ。裁判やり直せの要請を行い(全国から500名が参加)、あわせて“無実の国治を一刻も早く釈放せよ”と、厚生保護委員会へ要請しに行った。その夜、札幌を発ち、無実の人、国治のいる網走へ・・・・。国治がどんな気持ちで網走へ送られたかを語らいながら。朝、網走着。全員面会はできず代表のみ。私たちは刑務所の門前で“くにじさん、ガンバレー!”と励ます。面会した人々は口々に“くにじさんを励ましに行ったのに、逆に励まされた”という。“とっても温かい感じの人、あの人が首謀者なんかじゃない”ともいう。にこやかな歯の真っ白な、握手したとき手の温かい人、それが国治さんだ。

 網走の空はぬけるような青さだった。すぐそこに無実のくにじがいるのにとりもどせない。くにじは言う“やっていないものはやっていないのであります。真実は必ず勝つ”・・・・と。まさに、そうです。私たちのうんどう以外に釈放はないんだと痛切に感じ、どうしても釈放させることを心に誓い、くにじと再会できることを確信して岐路に着いた。短い文では書ききれない、たくさんの思い出を持って・・・・帰って来た。

《追記》

 今、名古屋です。昨日、村上さんの釈放が11月14日に決定しました。内容を少しかえたいと思いますが、書いたのがその前ですからよろしくお願いします。

網走ゆき  村上国治

北へ北へ北へ ひた走る

石狩川の流れも細まるあたり

ふるさと上川盆地は雪におおわれていた

十二年ぶりで通るわが村 村 村

網走ゆき急行「はまなす」は

無情にひた走る

手錠 腰縄 囚衣

歯をくいしばれ 涙を怒りにかえよ

屈辱をたえしのべ

この同じ道を南下する日のために

勝利の太陽とともに南下する日のために

  「かりがね」第11号に掲載

  1969年12月発行

 桜井恵子さんからリクエストのあった花が昨晩咲いた。夜の女王・大輪柱・十三夜美人であった。上から3枚は「夜の女王」で花径は30センチ、3輪咲いた。4枚目は「大輪柱」で花径は35センチ、4枚目は十三夜美人で花径は10センチ。蕾がまだまだたくさんあるので、楽しみだ。これらの花、葉を挿し木すれば霜にさえ当てなければ(冬は室内に)簡単に育つ。

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良寛歌集(東洋文庫556 平凡社)
1001 露霜の秋のもみぢとほととぎすいつの世にかはわれ忘れめや

1002 なきあとの形見ともがな春は花夏ほととぎす秋はもみぢば

1003 ももなかのいささむら竹いささめにいささか残す水茎のあと

1004 残しおくこのふる文は末長くわがなきあとの形見ともがな

1005 良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏といふと答えよ