あわ9条の会事務局会議、メダカ、月下美人

 昨晩(12日)は、我が家であわ9条の会の事務局会議があった。9日のスタンディングの話が出たが、来月からは暑いので9時開始が8時30分から9時15分に変更になる。また、原爆写真パネル、徳島大空襲パネルの展示について話し合った。毎年恒例で10数か所で行い、多くの阿波市民の皆さんに見ていただいている。

  「徳島大空襲パネル」を見た人は少ないのではないか。1945年7月4日に、徳島でも大空襲があった。ウィキペディアによると以下のように書かれている。

 「 1945年7月3日午後4時23分(日本時間)、マリアナ諸島のグアム・サイパンテニアンの3島4基地から高松・高知・姫路、そして徳島への爆撃のためアメリカ陸軍航空軍第21航空軍所属のB-29が501機出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。
 7月4日の未明、第21航空軍第314航空団の129機のB-29新町川河口から徳島市の上空に飛来。午前1時24分から同3時19分まで、1時間55分の間焼夷弾を投下し続けた。諸説あるが、徳島市の発表では、この空襲により当時の徳島市の約62%が焼失し、人的被害は死者約1,000人(男性431人、女性553人、性別不明17人の説もあり)、けが人は約2,000人、被災者は70,295人、罹災世帯は17,183世帯とされている。」

 30枚余りのパネルを見ると、焦土と化した徳島市内の様子は今の徳島市内と比べると、大空襲のすごさが理解される。我が家には、「非核の政府を求める徳島の会」が編集した「おじいちゃんおばあちゃんに聞いた 戦争の話 第2集」(1989年12月8日発行)がある。徳島県母親大会の実行委員長を長らく務めていたかたの「五人の孫たちへ」と題する文章があったので、その一部を紹介する。

f:id:tetuo0208:20190613140552j:plain

 「おばあちゃんは六年生になると修学旅行に行けるのを楽しみにしていました。でも、空襲が激しくなり、おばあちゃんの学年で中止になってしまいました。その頃、大阪や東京から空襲を逃れて鳴門にもたくさんのお友達が疎開してきました。

 国民学校(今の小学校)の卒業式のとき、艦載機(爆弾をたくさん積んだアメリカの飛行機)が飛んできて式の最中に空襲警報が出て、とうとう式が中止、次の日に卒業証書を取りに行ったことを覚えています。

 おばあちゃんは女学校に入学しました。でも、お勉強をするにもノートや鉛筆もありませんでした。おばあちゃんは今の鳴門のおばあちゃんが持っていた筆箱や鉛筆を貰って学校に行っていました。もちろんカバンもありません。お母さんの帯をほどいて自分でカバンを作りました。」

 宵待孔雀が毎晩のように咲いた。一晩で8輪咲いた時もあった。月下美人のつぼみも大きくなってきた。3~4年前から育てていた蓮がようやく咲くようだ。

f:id:tetuo0208:20190613130753j:plain

f:id:tetuo0208:20190613092508j:plain

f:id:tetuo0208:20190613130715j:plain

f:id:tetuo0208:20190613092449j:plain

f:id:tetuo0208:20190612075740j:plain

f:id:tetuo0208:20190611114829j:plain

●仙台北陵クリニックえん罪事件の守大助さんをご支援ください!

B型肝炎訴訟は全国B型肝炎訴訟弁護団にご相談を!

良寛詩集(東洋文庫556 平凡社
228 世の中を憂しと思へば時鳥木がくれてのみ鳴きわたるなり

229 青山の木ぬれたちぐき時鳥鳴くこゑ聞けば春はすぎけり

230 夏山をわが越え来れば時鳥こぬれたちぐき鳴き羽ぶく見ゆ

231 みよしのの山辺に住めばほととぎす木の間立ちぐき鳴かぬ日はなし

232 み山べを辿りつつ来し時鳥木の間立ちぐき鳴き羽振る見ゆ