トイレの故障、守大助の会

今朝(17日)、トイレを見るとパイプからもれ出ていた水が多くなっていた。ポリバケツの1/3ほどになっていた。2~3日前から少しずつ水漏れがしていた。娘に修理を頼んだら、パイプが折れた。パイプは腐食していた。水道がだめになるとトイレに入れないだけでなく、食事も作れない。あわてて、以前風呂場の改修をお願いした「カインドホームズ」(徳島市)に電話をした。すると、我が家の近くに今いるので、立ち寄ってくれるという。奥さん・子ども(5歳)と香川県の白鳥動物園に行く途中だという。まことに申し訳ない次第だ。彼は来る途中、ちょっとした道具と・部品も買ってきていた。しかし、故障した場所が悪く、それだけでは治らないので相棒の水道屋に電話してくれた。彼もすぐに来てくれ、あっという間に応急修理はできた。大感謝である。父親との遊びを中断させて、本当に申し訳ない。そこで以前から思案していたトイレ本体の取り換えと、バリアフリー化の見積もりをお願いした。

 13日(水)は午後から健康班会があり、連れ合いと参加した。健生石井クリニックの看護師が講師としてやってきた。テーマは「冬場の健康管理について」であった。①冬場によくある体調不良の症状について ②健康管理の注意点について ③体調不良を起こさないための対策 ④冬場に気をつけたい怖い症状について の4点を話してくれた。

 16日(土)は守大助の会の役員会があり参加した。雨のため、徳島駅前での宣伝は中止した。この日、事務局長は白内障の手術のため不参加。事務局次長から、会員数530名、仙台地裁あて署名1,232筆との報告があった。150枚印刷した守大助さんあての年賀はがきも、あと30枚ほどになった。救援会県本部大会で80枚ほどの協力があった。資料「北陵クリニック元医師の証言」(2001年2月3日要点メモ)を読み合わせた。

机の前

国民救援会大会、徳島文理大学で患者講義

 だいぶ寒くなってきたが、それでも時折暑い日差しが照ってくる。

 7日(木)午前中は、我が家で会議があったので参加した。午後からは、温室の木の剪定と来年の年賀状を書いた。年賀状は守大助さんあてに出すもので、9日(土)に行われる国民救援会徳島県本部大会参加者へ協力を求めるものであった。多くの方が協力してくれた。私が大会で、大助の会を代表したあいさつは下記の通り。

第50回日本国民救援会徳島県本部大会へのご挨拶

 救援会徳島県本部の第50回大会開催、おめでとうございます。日頃は、徳島県本部の皆様には大変お世話になっています。

 特に今大会は救援会ができて50周年という記念すべき大会で、私個人にとっても感慨深いものがあります。私が救援会とかかわりを持ったのは、1976年の新学社労組の阿部・仁木解雇闘争からでした。当時新学社では高齢者・出産女性に対する差別があり、その解雇撤回闘争でした。この時、有川マサ子が新学社労組の執行委員長で、次女を出産したばかりで解雇撤回闘争の中心的役割を果たしていました。5年間の闘いでした。その後、1983年には鴨島中央病院という精神科の病院で、患者への暴力を止めさす、賃金・労働条件の改善を求めて労働組合が結成されました。その労働組合に対する弾圧事件が発生し、山嵜さん・亀窟さんの2人の看護師の職場復帰闘争がありました。当時は、「2人を職場に戻す会」がつくられて、私は事務局長を務めていました。病院前や院長宅前での行動には、労働組合だけでなく多くの救援会の会員のみなさんにも参加していただきました。これまた解決には5年かかりました。それぞれ徳島合同法律事務所の弁護士のみなさんと救援会・会員のみなさんには大変お世話になり、合法と救援会の援助が無ければ勝利することができないものでした。

 今は、仙台北陵クリニック事件の守大助さんを支援する徳島の会に対し大変なご支援を受けています。まことにありがとうございます。

 守大助さんは2001年1月に患者さんを殺したとされて逮捕され、現在は千葉刑務所で無期懲役の刑で服役させられています。当時29歳だった彼はもう53歳になります。袴田巌さんのように再審・無罪の流れが進んできていますが、全国40を超える会が、救援会のみなさん、支援者のみなさんのお力を大いに借りて、大助さんを一日でも早くご両親のもとに返す活動を続けております。来年には仙台地裁に向けて、再審の開始を求める請求をするよう準備が進められています

 また来年2月22日(土)には、ご両親をお招きして総会を開催しますので、皆さんのご出席をお願いしてあいさつに代えさせていただきます。本日は、おめでとうございます。

 10日(日)は、9時からマルナカ柿原店前であわ9条の会の行動を行った。この日は、用事がある人が多く参加は4名だった。日差しも温かく気持ちの良い行動であった。午後からは阿波町の林公民館で行われた日本語教室に参加した。この日は他の地域から多くの日本語教室のボランティアが参加してきて、皆さんと交流をした。一番若い人は高校生・大学生のようだった。こんな時から外国人との交流を持ったら、差別・偏見が少なくなると思われた。帰ってきてから、昨日の救援会大会の報告をするため、守大助さんに手紙を書いた。

 11日(月)は、徳島文理大学薬学部に行ってきた。これは、私も所属しているB型肝炎訴訟原告団弁護団の行動の一つで、国によるB型肝炎被害の実相を多くの方に知っていただくものである。被害患者・弁護士が講師になって話をする。この講義は全国各地のB型肝炎訴訟原告団弁護団で行われていて、大阪が一番積極的にしている。私も2度ほど文理大で話をしたことがある。今回は患者がYさん、弁護士がNさんだった。学生のみなさん、熱心に話を聞いてくれた。YさんはB型肝炎感染を知ってから、いつ発症するか、肝硬変・肝がんにいつなるか、楽しく生きがいを持ってしていた仕事をやめ、家庭をどう守っていくか、実際に入院し劇症肝炎にまでなった話を、学生は驚きをもって聞いたのではなかろうか。

フリージア、県西部会員訪問

 衆議院議員選挙の結果は、国民から自公政権に「NO」の判断が下ったが、まだまだこれでは真の改革にはならないのではないかと思う。各政党、右顧左眄することなく国民生活の質の改善を図ってほしい。

ようやく秋らしくなってきて、朝も20度を切る気温になってきた。我が家は、孫たちが「ゴホン、ゴホン」と咳ばかり。近医に受診したらマイコプラズマ肺炎だそうだ。

 3日(日)は暖かだったので、春に掘り上げたフリージアの球根を植え付けた。色は、黄・白・紫・赤で、13箱のプランターと庭に植えたので恐らく400球近くあったのではなかろうか。また、腰の痛みが増してきた。それでも来春が楽しみだ。

 4日の晩は、宵待孔雀が6輪、白眉孔雀1輪、十三夜美人5輪咲いた。もうそろそろ終わりだと思うのだが、昨晩も咲いていた。

 今日は10時過ぎから、大助の会の役員たちと県西地域の会員さんを訪問し、会報の配布と会費の集金を行うことになっている。役員のみなさん、本当に協力的で力を惜しまない。「感謝」。毎年1回は訪問(我が家から60km)して、日頃は顔を合わす機会の無い会員との交流を図っている。

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「法服の王国 上」、ドコモスマホ教室、柱サボテン「鬼面角」

 先月、28日と31日はドコモのスマホ教室(1日4課 各1時間)があったので参加した。とにかくスマホ操作が下手なので参考にはなったが、どれほど使いこなすことができるか、まったく覚束ない。31日は、休憩時間に近くをぶらぶらしていたら、外国人のお遍路さんに道を聞かれた。こんな時スマホは全く便利で、翻訳機能を使っての質問だったので、鴨島駅を案内してあげた。2人の中年米国女性(もらった遍路札にはコロラド州デンバーと記載があった)だったが、大きなザックを背負い歩き遍路であるらしい。「Good luck」と声をかけて、道中の無事を祈った。

 30日は日中友好協会の中国語があり参加した。この日から今までに使用していたテキストを、再度初めから学んだ。一度勉強しても、大方忘れているからそれで良いか。また、徳島に出たついでに徳島健生病院の眼科を受診し、検査をし薬を処方してもらった。特に大きな変化はなかった。

 ようやく「法服の王国 小説裁判官」(黒木 亮 岩波現代文庫 上)を読んだ。本のカバーの後ろに「昭和40年代から始まった人権派裁判官粛清人事-青法協問題(ブルーパージ)と原発差し止め訴訟の二つを軸に戦後の裁判所の歴史を内側から明らかにする」と書かれている。私の10代20代のころで、大いに興味を持ってこれらのニュースを聞き、国のやり方に腹を立てたものだった。

 31日は息子の連れ合いの誕生日であった。

 30日には我が家の姫月下美人が12輪咲いた。つぼみはまだ少しあるが、寒くなったので万カニにはならないだろう。10月初めに購入した柱サボテンの「鬼面角」は蕾があったのだが、これまた満開にはならなかった。

投票日、ドラゴンフルーツ味、お祭り

 今日が投票日。どのような結果がでるか分からないが、日本共産党議席が伸びてほしい。一番の望みは白川よう子候補の、比例議席の獲得だ。8半過ぎに、連れ合いと投票所の柿原小学校に行ってきた。

 23日(水)の午前中は日中友好協会の中国語があり参加した。今使っているテキスト「起きてから寝るまで中国語表現1000」がもうすぐ終わるが、次はどんなテキストを使うのだろうか。

 午後からは、柿原公民館で健康班会があり、参加した。今回のテーマは「ひざ関節の痛み」。講師は健生石井クリニックの理学療法士で、膝関節の構造や変形性膝関節症などについて説明があった。その後、実技で膝の体操を行った。寝ながら・座りながらできる体操を、何種類も教えてくれた。私のように高齢者に向けて、無理なくできるものであった。

 昨日は、私が住む谷地区の神社の祭りで子ども神輿が出た。少し寒かったが、小5,1の2人の孫が神輿を引くために早朝から出て行った。娘も付き添いで参加。谷の各戸を回り家の繁栄を願った。夕方、はま候補の車が事務所に戻ってきたので、連れ合いと最後のマルナカ柿原店前での訴えに参加した。

 我が家には、再三書いているが一晩しか咲かない花がたくさんある。今日は花が咲いて赤い実がなった宵待孔雀と満月美人・姫月下美人の実を採取した。ドラゴンフルーツと同じ型だが、あまり大きくない。実を切ってみると、中は白くてゴマのような粒粒があった。食べてみると全くドラゴンフルーツと同じ味がした。来年からの楽しみが増えた。月下美人も受粉させると同じようになるのだろうか。

田中一村のカレンダー、伊藤若冲の手ぬぐい

 ネットを検索していたら田中一村の2025年カレンダーに行き当たった。そこで近くの書店に購入を依頼したのが、22日に届いた。田中一村(1908~1977)は栃木県生まれで、長らく奄美大島大島紬の染色工として働き、奄美の景観や植生を描いてきた。1984年にNHK日曜美術館で取り上げて以来、その存在・画業が認められてきた。我が家には絵画集が4冊、評伝が8冊ある。目につくとつい買ってしまうのだ。2006年4月には、連れ合いと鹿児島県・奄美大島の「田中一村美術館」・一村の旧居を訪問した。

 私の本、ブログ「孺子の牛」の73ページの「沖永良部島」の項には、その時の様子を報告している。

 4月11には奄美大島に渡った。今回の旅行の最大の目的の「田中一村美術館」に行くためである。美術館は「奄美パーク」の中にある。高倉を模した建物の中に、一村の絵が納められていた。「田中一村作品集」(NHK出版)で見た世界が広がっていた。一村の人となりを著した本も何冊か読んでいたので、きれいに額装された絵はこじんまりして見えた。一村の貧窮極まる生活とそぐわないと思うべきか、没後に評価されてよかったと言うべきか、微妙である。田中一村のあばら家然とした旧居も訪問した。

 9月から12月1日まで、東京都美術館で「田中一村奄美の光 魂の絵画」が開かれている。行って見たいが、懐具合が許してくれない。

 連れ合いは、19日・20日に大学時代の友人2人と、神山温泉に泊まりに行ってきた。阿波の十郎兵衛屋敷と四国札所焼山寺に行ってきて、大いに楽しんだようだ。友人の一人が、私が手ぬぐいを集めているのを知っていて、伊藤若冲(1716~1800)の絵(双福鶏図 雄)の手ぬぐいをプレゼントしてくれた。感謝!!!

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白川候補奮闘、ドラゴンフルーツが咲く

 今朝温室を見てみると、大きなドラゴンフルーツが1輪咲いていた。今までにない大きさであった。

 15日(火)衆議院議員選挙が公示された。連れ合いと一緒にはま共生候補の事務所に行った。多くの支援者が事務所に集まり、マスコミも取材に来ていた。出陣式が終わると候補者ポスターを張りに行った。連れ合いと一緒に張ったが1時間半ほどかかった。午後からはスマホの調子が悪いので、機種変更をしてきた。なかなか使い方がわからないので、スマホ教室参加の申し込みをした。機能が変わるとこの年齢では覚えるのが大変だ。

 16日(水)は文学書道館で日中友好協会の中国語があり参加した。

 17日(木)は、白川容子候補の選挙カーマルナカ柿原店前に来たので、激励に連れ合いと行った。比例区に出ている徳島生まれの彼女、相変わらず元気で力強く政策を訴えていた。時々車から手を振りクラクションを鳴らしてくれる人もいた。四国の比例区は定数6人だが、ここ20年あまり議席を獲得することができていない。元香川県議としての経験豊富な彼女、きちんと国民の願いを国政に届けてくれるはずだ。17日・18日・19日にかけて政策チラシと阿波民報を配布した。腰痛が治らない。

 19日(土)の午後からは、守大助の会の役員会と徳島駅前での宣伝行動があり参加した。この日の宣伝行動は国民救援会と合同で、再審法改正と守大助の再審請求署名の協力を求めた。最近入会した人が、宣伝活動に参加してくれた。大感激である。彼女も看護師で、県外で働いていたが親の介護で徳島に帰ってきたらしい。来年もまた守大助さんに年賀状を出すことにしたので、会員のみなさんに協力を求めることにし、案文を私が作ることになった。

宵待孔雀と満月美人の赤い実がなった。

満月美人

満月美人