だいぶ寒くなってきたが、それでも時折暑い日差しが照ってくる。
7日(木)午前中は、我が家で会議があったので参加した。午後からは、温室の木の剪定と来年の年賀状を書いた。年賀状は守大助さんあてに出すもので、9日(土)に行われる国民救援会徳島県本部大会参加者へ協力を求めるものであった。多くの方が協力してくれた。私が大会で、大助の会を代表したあいさつは下記の通り。
救援会徳島県本部の第50回大会開催、おめでとうございます。日頃は、徳島県本部の皆様には大変お世話になっています。
特に今大会は救援会ができて50周年という記念すべき大会で、私個人にとっても感慨深いものがあります。私が救援会とかかわりを持ったのは、1976年の新学社労組の阿部・仁木解雇闘争からでした。当時新学社では高齢者・出産女性に対する差別があり、その解雇撤回闘争でした。この時、有川マサ子が新学社労組の執行委員長で、次女を出産したばかりで解雇撤回闘争の中心的役割を果たしていました。5年間の闘いでした。その後、1983年には鴨島中央病院という精神科の病院で、患者への暴力を止めさす、賃金・労働条件の改善を求めて労働組合が結成されました。その労働組合に対する弾圧事件が発生し、山嵜さん・亀窟さんの2人の看護師の職場復帰闘争がありました。当時は、「2人を職場に戻す会」がつくられて、私は事務局長を務めていました。病院前や院長宅前での行動には、労働組合だけでなく多くの救援会の会員のみなさんにも参加していただきました。これまた解決には5年かかりました。それぞれ徳島合同法律事務所の弁護士のみなさんと救援会・会員のみなさんには大変お世話になり、合法と救援会の援助が無ければ勝利することができないものでした。
今は、仙台北陵クリニック事件の守大助さんを支援する徳島の会に対し大変なご支援を受けています。まことにありがとうございます。
守大助さんは2001年1月に患者さんを殺したとされて逮捕され、現在は千葉刑務所で無期懲役の刑で服役させられています。当時29歳だった彼はもう53歳になります。袴田巌さんのように再審・無罪の流れが進んできていますが、全国40を超える会が、救援会のみなさん、支援者のみなさんのお力を大いに借りて、大助さんを一日でも早くご両親のもとに返す活動を続けております。来年には仙台地裁に向けて、再審の開始を求める請求をするよう準備が進められています
また来年2月22日(土)には、ご両親をお招きして総会を開催しますので、皆さんのご出席をお願いしてあいさつに代えさせていただきます。本日は、おめでとうございます。
10日(日)は、9時からマルナカ柿原店前であわ9条の会の行動を行った。この日は、用事がある人が多く参加は4名だった。日差しも温かく気持ちの良い行動であった。午後からは阿波町の林公民館で行われた日本語教室に参加した。この日は他の地域から多くの日本語教室のボランティアが参加してきて、皆さんと交流をした。一番若い人は高校生・大学生のようだった。こんな時から外国人との交流を持ったら、差別・偏見が少なくなると思われた。帰ってきてから、昨日の救援会大会の報告をするため、守大助さんに手紙を書いた。
11日(月)は、徳島文理大学薬学部に行ってきた。これは、私も所属しているB型肝炎訴訟原告団・弁護団の行動の一つで、国によるB型肝炎被害の実相を多くの方に知っていただくものである。被害患者・弁護士が講師になって話をする。この講義は全国各地のB型肝炎訴訟原告団・弁護団で行われていて、大阪が一番積極的にしている。私も2度ほど文理大で話をしたことがある。今回は患者がYさん、弁護士がNさんだった。学生のみなさん、熱心に話を聞いてくれた。YさんはB型肝炎感染を知ってから、いつ発症するか、肝硬変・肝がんにいつなるか、楽しく生きがいを持ってしていた仕事をやめ、家庭をどう守っていくか、実際に入院し劇症肝炎にまでなった話を、学生は驚きをもって聞いたのではなかろうか。