博覧会、富士茂子

 8月6日、9日、各地で原爆の日の慰霊が行われた。広島出身の岸田総理の言葉は、まったく国民・世界の平和を求める人たちの願いをないがしろにするものであった。
 早朝は少し涼しくなってきて、庭の草抜きもしやすくなった。そこで我が家の前の市有地の草抜きもした。メダカの池も汚くなるのが早く、水の入れ替えをした。
 前回の記事では、「以前読んだ本で、万博会場(本が見当たらないのでいつかわからない)にアイヌの小屋を建てアイヌの暮らしを再現させた写真が掲載されていた。人間扱いされていなかった。」と書いたのだが、真剣に本を探して見た。そして出てきたのが「近代日本の植民地博覧会」(山路勝彦 風響社 2008年1月)であった。
 本書によると、1903年明治36年)に大阪で第5回内国勧業博覧会が開かれ、大阪朝日新聞が開催趣旨を書いている。「内地に近き異人種を聚め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ5名、台湾生蕃4名、琉球2名、朝鮮2名、支那3名、インド3名、瓜哇(ジャワ)1名、バルガリー(ベンガル)1名、都合21名の男女が各其国の住所に模したる一定の区画内に団欒しつつ、日常の起居動作を見するにあり。」と紹介している。要するに見世物である。
 1912年(大正元年)に東京・上野で開かれた拓殖博覧会でも、同様であった。これに合わせアイヌ人の絵葉書が売り出されている。この時代の絵葉書は、今のテレビやスマホのように記録として貴重なものであった。

 探していて別に見つかったのが、徳島ラジオ商事件にかかわる本であった。この事件はラジオ商の三枝亀三郎さんが1953年11月5日に殺され、妻の富士茂子さんが夫殺しの犯人として1954年8月13日に逮捕された。懲役13年の判決を受け、服役しながらも再審請求をして闘ってきたのだが、1966年11月30日に仮出所した。仮出所後も再審請求・即時抗告を繰り返し、1977年10月には国民救援会徳島県本部や再審を求める会の支援を受けてさらに活動を続けたが、闘い途中1979年11月15日に亡くなった。その裁判を茂子さんの姉・妹・弟が受け継いで、1983年にようやく無罪が確定した長い長いえん罪との闘いであった。守大助さんのえん罪を考えるうえでも貴重な資料と思う。
 何人かの作家がこの事件をもとに小説を書いているし、瀬戸内寂聴はじめ多くの著名人が茂子さんを支援した。詳しくは、「徳島ラジオ商殺し事件 真実を求めて30年」(渡辺倍夫 茂子さんの姪の夫 1983年5月 木馬書館)、「ニュースと写真で綴る徳島ラジオ商事件闘いの記録 無実」(1986年7月 記録編集委員会)。などをご覧ください。

 もう1冊が茂子さんの歌集「埋み火」(うずみび)富士茂子遺歌集 1984年4月。最近facebookの最後に詩や俳句・短歌・川柳を掲載しなくなったので、今後はこの富士茂子遺歌集に書かれている270首を掲載するとしよう。
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「埋み火」富士茂子(編者:柏原千恵子 1984.4.17)
 葉牡丹
〇護送車の我を看守る白き眼が心の髄にしみて冷たし
〇はらからがひらひらと高く手を振りて護送車のわれに言葉投げたり
〇恥さらすこころ疼(うず)けば身もだえて裁かれる時の来るを恐るる
〇身につかぬ言葉せつなく散り散りの弁明のひびき忌まわしきかな
〇唯一つ云わしてくれと哀願する弟の無念みゆるくやしさ
〇この侮辱この感激この誇り永久に忘れなと魂が呼ぶ
〇吐く言葉壁にあたれば山彦となりて再び我を責めくる
〇夢にさえ見たこともなき牢獄に年迎えたり四十四の春
〇明けの鳥飛びゆくあたりわが家かとそっと心をのせて通わす