「えらぶ郷土研会報」、「江戸小咄女百態」

  我が家の生活も子どもたちが帰って、だいぶ落ち着いてきた。

 4日(土)午後には、守大助の会の宣伝行動と役員会があった。2月末の総会の最終打ち合わせを行った。

 先日、千葉に住む兄から電話があった。中国(泉州)行きの話かと思ったが、そうではなくて「えらぶ郷土研究会」が発行している会報「えらぶ郷土研会報」NO.46に祖父の名前(有川石治)が書かれているが、欲しかったらコピーを送るというので、お願いした。

 この研究会の事務所は和泊町歴史民俗資料館内にあり、従妹の連れ合い(先田光演 1942年生まれ)が中学校退職後に世話をしているところで、私も沖永良部島に行った時見学させてもらったことがある。永良部の歴史・民俗が分かるように展示されていた。中学校では社会を教えていたが、郷土史や考古学に興味があり、論文も書いて本にしている。

 私が読んだのは、「沖永良部島のユタ」(海風社 1989年6月)と「奄美の歴史とシマの民俗」(まろうど社 1999年5月)、永良部島の歴史・民俗が理解され、地域を大切にしている心が伝わってくる。

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 会報に伊地知裕仁さんが「南洲橋架橋に関する調査報告」を書いている。「南洲」というのは、西郷隆盛のことであり西郷は沖永良部島に罪を得て遠島されている。彼を記念して名がつけられている。南洲橋は1920年大正8年)の4月12日に工事が始まり11月8日に完成した。祖父はその建設に少し携わり、名前が紹介された。大したことではないが、せっかくだからその部分を紹介する。「当時、沖永良部島には石灰岩を正確に割る技術者が少なかったので、鹿児島から来た職人たちが切り出し、架橋現場までは有川石治氏(昭和46年没)達のような兵隊帰りの元気な若者や在郷軍人の人たちが2名から4名が担いで運んだ。現場に来て足場を伝って担ぎ上げる時は足場がゆれて危険であった。(工事に関する項は、宮元篤志氏が生前の有川石治氏から聞き取ってあった)

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 この写真は、当時東京都大田区馬込に私たちの家があったが、そこで叔父の結婚式があり、東京に上京してきた祖父が、叔父の祝いを兼ねて踊ったものだろう。今から60年ほど前のことだろう。

 長さ5mほどの石橋だが、当時は人力ばかりで大変であったろう。完成までに193日もかかっている。この会報には、先田光演も「沖永良部島の墓制・トゥール墓とトゥールミ」という一文を寄せている。いつまでも研究熱な人である。

 正月、あまり難しい本を読む気持ちがないので、興津要の「江戸小咄女百態」(ちくま文庫)を読んだ。江戸の女性の暮らしが書かれているが、いつまでも男より下に置かれていて、今の時代ひんしゅくを買う事必定である。

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 「妾」の項に「江戸時代から明治初期にかけては、妾という存在は、かなり公的なもので、たとえば、明治3年(1870年)に公布された『新律綱領』では、妻も妾も二等親で、親族として戸籍に記載されたがごとくだった。」と書かれている。もっとも、それで妻と妾が同等の権利を持っていたという事ではない。

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良寛歌集(東洋文庫556 平凡社

436 秋風の夜毎に寒くなるなべに枯野に残る鈴虫のこゑ

437 わが待ちし秋は来ぬらし今宵しもいとひき虫の鳴きそめにけり

438 わが待ちし秋は来ぬらしこのゆふべ草むらごとに虫の声する

439 ともしびの消えていづこへゆくやらむ草むらごとに虫のこゑする

440 わが待ちし秋は来にけりたかさごの峰(を)の上(へ)にひびくひ暮らしの声

※いとひき虫:こほろぎ